直江津中学校について_歴史と伝統_

地域の特色(歴史・概況)



(1) 奈良時代
 奈良時代には、律令政府の出先機関である「越後国府」が置かれ、この地方の「上越後」を略して「上越」と呼んだことに始まる。奈良時代の「国府」および「国分寺」の所在地は謎であるが、直江津地区は、越後国府が置かれ、交通の要衝として古くから栄えた、歴史の町である。

 (2) 平安時代
 平安時代の末期には、学区である五智周辺に国府が移った。親鸞聖人の配所があり、親鸞聖人ゆかりの地でもある。現在の五智国分寺は、永禄5年(1562年)に上杉謙信が再興したものと言われている。
 また、祇園祭の始まりは、おそらく、平安時代の中頃、今から900年ほど昔のことと言われている。直江津の人々の幸せを願って、お神輿を町中でかついだのが始まりであり、お神輿の出る直江津・八坂神社は京都・八坂神社の流れをくむ神社である。そこから「祇園祭」と呼ばれている。この頃にはまだ屋台の明確な形はなかった。



 (3) 室町時代~戦国時代
 直江津は、上越地方に所在した越後国府の中心として、また湊町「直江の津」として古くから栄えていたことが知られている。室町時代には、「越後府中文化」といわれる時代が続き、春日山城を居城に天下にその名を知られた上杉謙信の時代には、越後府中の人口は一説には6万人を数えたと言われている。

 (4) 江戸時代
 直江津は江戸時代のころは、「今町」もしくは「直江津今町」と呼ばれていた。そのため毎年お神輿の出る直江津・八坂神社は、昔は「今町祇園社」と呼ばれていた。慶長19年(1614年)に徳川家康の第六子、松平忠輝が直江津の福島城を廃し、高田に築城し、新しい町を盛んにするため、直江津と福島城下の神社やお寺の大部分を高田に移させた。その結果、高田は北国街道随一の城下町として繁栄することになったが、直江津は急速に衰退し、高田城下の一外港の町になっていった。しかし、今町祇園社は忠輝に願い出て、朱印地百石の代わりに今町に留まり、祇園祭の時には、高田まで出てきて、お祭りをすることを許された。それ以来祇園祭の時には、直江津の八坂神社からお神輿が上がっていくようになった。屋台が出始めたのは江戸時代だが、大正の初期まではお神輿のように担ぐ形だったそうである。その後現在の荒川町が、最初にひっぱる屋台をつくり広まっていき、また、勇壮なお餞米奉納が現在の形になったのもこの頃と言われている。
 長く都市機能を失っていた直江津も、北前船などの日本海海運による流通経済の急速な発達によって、次第に物流の拠点として船主や廻船問屋など財力を持つ人達が現れ、それを支える労働人口や商業が生まれて、幕末には日本海有数の海運の町になっていった。



 (5) 明治時代
 明治になると、大陸との貿易や北海道の海産物の集散地、また近代工業都市として発展していくが、昭和40年代以降の経済の激変によって、旧市内の空洞化が急速に始まった。昭和46年、高田市と合併し上越市が生まれた。
 また、直江津には、火災が多く、記録に残る最古の明和4年(1767)から昭和6年(1931)までの間に23回、実に7年に1度の割合で大火に見舞われている。そのうち、明治期には3年連続という大火が2度もあった。度重なる大火で、歴史的な町の景観が次第に失われていき、さらに明治以降になると、港湾の発展や近代工業の進出によって、復興のたびに近代的な洋風建築や耐火性の高いレンガ造りの建物が出現したことも、古い「町家が消えていった原因の1つと言える。
 また、人々に愛されている三八市は、明治44年(1911)に、街をにぎやかにするためにできた。始めは、5と9のつく日に開かれたが、2年目からは、3と8のつく日に開かれるため、このような名前が付いた。

 (6) 現在
 校区については、開校以来ほとんど変更が見られなかったが、昭和58年4月の春日中学校新設に伴い、校区南部の一部分離が行われた。
校区内に3小学校があり、それぞれに地区の特色を有しているが、古くからの伝統や慣習を大切にする気風が共通して見られる。また、学校周辺は高校や公共施設があり、恵まれた教育環境と言える。また、地域住民の学校教育への関心が高く、旧直江津地区唯一の中学校である本校に寄せる期待は大きい。そのためPTAはもとより、学校後援会や体育文化後援会、同窓会などの団体が本校の教育活動を積極的に支援している。